■7日目…4月4日(月)…その4
プラハ
━━▲━━
・Muzeum Bedřicha Smetany (ムゼウム・ベドジハ・スメタニティ) スメタナ博物館
↓カレル橋から見たスメタナ博物館
スメタナが実際に1863年から1869年まで住んでいた家で、ラジャンスキー宮殿と呼ばれています。
小さいながらも“Palác=宮殿”というのがすごいですね。
プラハ市内にはこういった小さめの“宮殿”がいくつもあります。
ベドジフ・スメタナ (Bedřich Smetana / 1824-1884)
さっそく入ってみます。
一階でチケットを購入して二階に上がります。
↓チケット(左:表 / 右:裏)
入場料は50Kč(約272円)で、館内でカメラ使用の場合は別途30Kč(約163円)です。
↓二階にはスメタナ像があります。
二階の展示室のドアを入ったところにまた受付カウンターがあり、日本語パンフレットを貸してくれました。
博物館には他に女性客が一人、男性客が一人いました。
この時、私は特に気にも留めていなかったのですが、数日後にちょっとビックリすることがありました。
手前の部屋には、スメタナ先生の両親の肖像画や、愛用した指揮棒やメガネ、出生証明書、成績表、結婚証明書、結婚指輪などが展示されていました。
館内中央には、スメタナ先生のピアノ(ウルリッヒ社製)があります。
壁にはスメタナ先生の生涯が紹介され、学生時代の写真や関わりを持った人の写真、手紙、妻や娘、孫の写真、作品の上演ポスターなども展示されています。
ショーケースの中には、チェコ学生連盟から贈られた銀冠が展示されていました。
奥の部屋にはスメタナ先生の作品のスコアと譜面台があります。
メインの指揮台には、先端からレーザーが出るタクトが置いてあり、聴きたい音楽の譜面台にタクトの先を向けると音楽が流れ出します。
スメタナ先生が生きた時代のチェコはオーストリア帝国の構成国の一つで、ドイツ語が公用語とされ、チェコ語は書物でも公的な場所でも使用が禁止されていたとか・・・。
当然ながらチェコの地名はすべてドイツ語表記で、私が訪れたヘプはエーガー、ロケットはエルボーゲン、フランティシュコヴィ・ラーズニェはフランツェンス・バート・・・そしてヴルタヴァはモルダウという感じでした。
ちなみに「スメタナ」はクリームという意味の苗字で、名前のベドジフはドイツ語でフリードリヒです。
そんな時代に活躍したスメタナ先生は愛国心の強い音楽家で、国を愛し、チェコ民族の精神を盛り立てるような作品を遺しています。
6つの曲からなる交響詩「わが祖国」はその代表作で、その第2番の「ヴルタヴァ(モルダウ)」は我々日本人にもなじみ深い曲です。
スメタナ先生はこの交響詩「わが祖国」を作曲している頃から、梅毒による身体の不調に悩まされ、50歳前後で次第に聴力を失います。
1882年11月5日、スメタナ先生58歳の時に交響詩「わが祖国」がプラハで初演されますが、この時はもう、完全に聴力を失っていました。
その後、梅毒の進行による脳障害で正気を失い、プラハの精神病院に入院し、1884年5月12日に60歳でその生涯を閉じました。
↓博物館の前にあるスメタナの像
博物館を後にして外に出ると、雨はあがり、曇り空になっていました。
時間は14:30。
カレル橋を渡り、プラハ城を目指します。
橋の上にはストリートミュージシャンや物売りの人もちらほら出ていました。
対岸の方にも塔があり、門をくぐり、登り坂の路地を進んでいきます。
↓プラハ城に続く坂の途中で振り返り、プラハ市内を望みます。
相変わらず厚い雲が空を覆っています。 ( ̄-  ̄ )
▲「7日目…4月4日(月)…その3」へ【戻る】
●「2011年ドイツ~チェコ旅行」へ
▼「7日目…4月4日(月)…その5」へ【進む】