■5日目…4月2日(土)…その6
ヘプ → ロケット → ヘプ
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●Cheb ヘプ / Eger エーガー
チェコ西部、ドイツ国境の町ヘプ。
ドイツ名はEger(エーガー)と言います。
現在チェコ共和国に属するこの町は、1061年の史料にEgire(エーギレ)と書かれ、当時は神聖ローマ帝国のドイツ系の領土でした。
ドイツ国境に近く、中世よりバイエルンからボヘミア(ベーメン)地方へと移動する中継地点としての役割を果たし、交易などを通じて栄えました。
もともとドイツ系の町でしたが、ボヘミア、ザクセン公国、オーストリア・ハンガリー帝国、チェコスロヴァキア、ナチス・ドイツの占領、チェコスロヴァキア、チェコ・・・と、ドイツ系とチェコ系の変遷を辿りました。
町にはオフジェ川が流れています。
「ヘプ」とは「曲がる」という意味で、町を流れる川がヘプの辺りで曲がっていることから名付けられたそうです。
前出のロケットの町もオフジェ川が町を囲むように流れていました。
・Loket (ロケット)は「肘」…川が肘のように蛇行していることから。
・Cheb (ヘプ)は「曲がる」…川がこのあたりで曲がっていることから。
そのままのネーミングですね・・・。
ちなみにオフジェ川はヘプの方が上流です。
メインストリートを歩くと、歩道には金属製のプレートが埋め込まれ、その先には板のようなオブジェが建っています。プレートをよく見ると、西暦と共にチェコ語、ドイツ語、英語で文字が刻んであります。
これはヘプの町の歴史を表しているようですね。
ヘプ城に向かって歩くと、イジー・ポジェブラド王広場というところに出ます。
・Náměstí Krále Jiřího z Poděbrady (ナーメスティ・クラーレ・イェージーホ・ズ・ポディエブラーデ) イジー・ポジェブラド王広場
フス派の貴族ポジェブラド家出身で、15世紀後半にボヘミア王になったイジーの名を冠する広場です。
細長い広場を囲む家々は、赤色の瓦屋根で統一され、壁はすべてパステルカラーにまとめられ、とても美しい町並みとなっています。
・Špalíček (シュパリーチェク)
「側屋」という意味の長屋のような建物は13世紀にゴシック様式で建てられ、16世紀にはユダヤ人商人の店になっていました。
現在は広場に面した一階部分にカフェや土産物店が入っています。
途中の観光案内所で絵はがきを購入して、ヘプ城に向かいます。
・Chebský hrad (ヘプスキー・フラド) ヘプ城
1180年頃に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ=赤髭王)の時代にロマネスク様式で築城され、続いてゴシック様式の礼拝堂が建てられました。
1743年にフランス軍の砲撃に遭い、その後再建されず現在に至っています。
現在残っているのはベルクフリート(主塔)と礼拝堂です。
・Černá věž (チェルナー・ヴェシュ) 黒い塔
「黒い塔」と呼ばれる18mのこの塔はホントに真っ黒で、まるで火事で焼け焦げたかのようですが、この塔は火山の溶岩石である玄武岩(げんぶがん)を使って建てられたたため、始めからこのような黒い色をしていました。
堀に架かる橋を渡り城門をくぐり、まず城門の横にあるこの黒い塔に登ります。
内部は先ほど訪ねたロケット城のベルクフリート同様、木製の階段が塔の最上階へと続いています。
↓窓・・・壁の厚さは120cmくらいでしょうか・・・。
↓銃眼(じゅうがん)
↓塔の最上階
ヘプ城のベルクフリートは屋根で覆われていないので、360度周囲が見渡せます。
↓城の廃墟部分と中庭
どうやらお祭が開催されているようです。
・Kaple sv.Erharda a Uršuly (カプレ・スヴァテ・エルハルダ・ア・ウルシュリー) 聖エアハルト・聖ウルスラ礼拝堂
ゴシック様式の礼拝堂は、一階と二階で個別に礼拝できる二重礼拝堂で、一階は市民用の礼拝堂、二階は皇帝専用の礼拝堂となっています。
↓礼拝堂一階
狭い階段を二階へ上ります。
↓礼拝堂二階
中央部分は吹き抜けになっています。
内部は1743年の砲撃で略奪されたため、祭壇や彫刻などは残っていません。
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